氷中花 〜私と北国の冬〜

「氷中花」〜私と北国の冬〜

 二十年前、二十二歳で北海道にやって来たばかりの私は、冬場に「水を落とす」ということを知らなかった。
 水は凍結すると膨張し、配管を破る。止水栓をひねってガス湯沸かし器の内部にたまった水を抜かねばならないとは知らず、自宅を水浸しにした。
「北国の常識」は、失敗を繰り返しながら覚えていくしかない。

 自宅の六畳間を仕事場にして、ロクロを回していた三十一歳。ふすまの向こうは居間で、子どもの泣き叫ぶ声で仕事に集中出来ずにいた。窯は屋外に作ったので、冬場の窯詰めは困難を極めた。うつわに施した釉薬が、運んでいる最中に凍ってしまうからだ。
 
 そんな事情が重なって、引っ越しをした。次の住まいは納屋付きの一軒家で、敷地は広く、おまけに湧き水まであった。納屋を自力で整備して作業場にし、湧き水に配管を埋設して作業場の中で水仕事を可能にした。夢に描いていた作業環境である。しかし、それは秋までのこと。冬になると広い空間を暖めることは困難で、粘土や釉薬をよく凍らせた。そのため室内にビニールハウスを組んで、その中で作業しなければならなかった。
 
 翌年の一月に東京で初めての個展があり、作業場を留守にするので、凍結予防のために蛇口からチョロチョロと水を出しておくことにした。苦労して埋設した配管の中で水が凍ってしまっては大変だからだ。我ながら、用心深い。

 個展四日目。自宅から電話があった。「作業場がスケートリンクになっている」という。話している意味がよく分からない。帰宅後に作業場を覗くと、確かに床に分厚い氷が張っている。リンクと化した空間の中に、ひときわ大きな氷の固まりが、まるで氷中花のように鎮座している。中には流し台が固まっていた。どうやら排水が凍ってしまって流れなくなり、蛇口から出る水が流し台から床へと溢れ出ていたらしい。水は長時間かけて四方に広がり、床に置いてあった湯呑も飯碗も氷の中に閉じ込めていた。
 あの時ほど北海道で陶芸をするのは辛いと思ったことはない。でも、なぜか愉快だった。おかしくて笑いながらツルハシで氷を割った。
 
 四十一歳の冬。雪下ろしが間に合わず屋根を折る。落雪で窓ガラスを三枚割る。
 そして今年、四十二歳の冬。まずは防寒具一式を買いそろえ、作業場には断熱を効かせて、電気ストーブでプラス十度以下にならないように設定した。折れた屋根は直したし、準備は万全。さて、二十回目となる今年の冬はどんなもんか!

(あさひかわ新聞2012年12月11日工藤和彦コラム「アールブリュットな日々」より)

サボア・ヴィーブル 初個展の思い出 その1


2012年 東京・六本木のサボア・ヴィーブルさんで個展を開催しました
今回で10年目となりました。

11年前の秋にここに初めてやって来た日が懐かしい。



2001年の秋、、、僕は益子の陶器市に北海道から参加していました。その当時は、北海道内の陶器市の他に益子の陶器市にまで、足を伸ばしていたんです。

車にタイヤがへこむほど陶器を満載して、春と秋の陶器市に7年ほど通っていました。
各地の陶芸家を受け入れてくれる益子の人達の度量の大きさには本当に感謝です。

益子の陶器市では、地元や全国各地の陶芸家との交流もあり、とてもエキサイティングで楽しい時間を過ごす事が出来ました。

2001年秋の陶器市の帰り、、、過酷な運搬を強いられた車が、とうとう走行中に動かなくなってしまいました。仕方なくレッカー移動して近くの修理工場で見てもらうと、部品交換の修理が必要との事。

修理には1週間ぐらいかかるらしく、仕方なく修理をお願いし、荷物をまとめて東京に向かいました。この際、東京の有名ギャラリーに営業に行ってみようと思い立ったからです。

そこで、訪ねたのがサボア・ヴィーブルさんでした。

すでに、納得いく作品はほとんど益子で販売してしまっていたので、手元に残った僅かをお見せしてもダメかな、、、、と思いましたが、勇気を出して作品を見て欲しいとお願いしました。

運のいい事にオーナーがおられ、すぐに作品を見て頂くことになりました。サボア・ヴィーブルさんのお店の前には、野外テーブルがあって、その上に作品を並べる、、、、
作品を挟んでオーナーと向き合う。緊張の場面。



案の定。作品を見た瞬間からオーナーは様々な指摘を始めました。
そのひとつひとつが的確で、どれも参考になるご意見でした。
説得力があって、そして時に発展的に、当時のうつわ事情を交えたお話。

突然来た若い陶芸家に対して、これほど熱く対応して頂けた事にとてもビックリしていると、
「ロクロはある程度出来るようだね」と言われ、まじまじとうつわを眺めてから

「指摘した事をしっかり考えて作ってみてくれたら、2ヶ月後に個展のスケジュールに空きがあるので、やってみないか。」とおっしゃいました。僕は一瞬、唖然としましたが、即答!
「やらせて下さい」と声を振り絞りました。

打ち合わせを済ませ、帰ろうとするとオーナーが、「チャンスをモノに出来るかは君次第だからな」と声をかけてくれました。
僕の中には妙な自信が込み上げて来て、震えが止まりませんでした。
こういうのが武者震いなんだなとその時思いました。

サボア・ヴィーブルでの初個展は同時に東京でも初めての個展でしたので、初日を迎えるまでのプレッシャーは相当なもので不眠不休で制作をし、肌は荒れ、耳たぶが切れて血を流してしまうほどでした。

「あまり沢山持って来なくてもいいよ」と言われていたので、加減して個展の搬入をすると、梱包したダンボールから出てきた作品を見てオーナーが「今すぐ家に電話して、工房にあるものをとにかく送ってもらうように頼みなさい」と言い出されました。

あの時はとっても嬉しかった。

この10年、様々な助言をサボア・ヴィーブルさんから頂きました。
僕の考え、方向性を考慮してのアドバイスに感謝しています。

「やるべき事はまだまだ沢山ある」
10年経っても、サボア・ヴィーブルさんに来る度に野外テーブルを見てはそう思い起こします。

ちなみに、東京に来るきっかけを作ってくれた車は、
修理工場からの帰路、数キロで再び故障。廃車となりました。
これで、その秋の陶器市での売り上げは、消えてなくなってしまいました。

作ったものが売れるという高校生の驚き

  僕が通っていた高校での文化祭に、所属していた美術部陶芸班では1年かけて作った作品を販売するのが恒例でした。どんなに大きな壷でも、大皿でも1000円以内の価格で販売する事をルールにしていました。湯呑だったらせいぜい300円ぐらいです。しかし、部活顧問の先生達は美術や建築を教えているような教職員なので作品のレベルの高さはプロ並です。だから、文化祭初日には校門が開くと地域の主婦達がいいものを手に入れようと殺到する人気の催しになっていました。
 
 先生達の大量の作品に混じって僕の作った湯吞とか花入なんかも並べて販売されました。それも飛ぶように売れていきました。当時はバブルの絶頂期でしたが、あっという間に売れて行く様子は高校生には衝撃的でした。
「僕が作りたくて作ったものを、喜んで買ってくれる人がいるんだ!」という現象を目の当たりにした訳です。

 文化祭が終わってしばらくたって僕が小田原市役所に行ったら、なんとロビーに文化祭で売った一輪挿しがなにげに置いてあるのを見つけました。一輪差しには花が活けられています。何とも不格好なものだったので印象深い作品でした。
 「買ってくれた人は、こうして僕の知らない所で使ってくれているんだ」という事実も知りました。

 「自分は陶芸家になれる」という思い込みをいっそう強くした出来事でした。
 あの時に再会した一輪挿しの姿を今でも思い出します。

衝撃の出会い

  高校2年生の時、いつもの行きつけの画廊に寄りました。アオキ画廊というところで小田原駅の近くにある老舗の画廊です。絵画の他に陶芸、織物など、いろいろなジャンルの展覧会を開催していました。美術鑑賞が好きな僕は定期的に見に行っていました。その日、ドアを開けて画廊に入ると、重厚感のある今まで見た事も無い作品がいくつも並んでいました。ごつごつと土の中から白い石が見え、淡い青緑の色彩が流れるように覆い。荒く削られた造形はまるで岩石を思わせるような存在感でした。僕がじっと見入っていると年配の女の方が声をかけてくれました。少しは陶芸の事を見聞きして知識を持っていた僕は、ギャラリーの方かと思って「僕も陶芸しているんです!」と張り切って自分の創作活動の話しをしました。すると、、、、だんだんその女の人は鋭い目となってこちらを見つめ、、、「あなた、まったく分かっていない」と一喝!。この女の方こそ作品の制作者「神山清子先生」だったのでした。迫力のある作品を小柄な女の人が作っていた事にビックリしたのと、体から溢れ出る威圧感に僕は正直ビビりました。これが後に師匠となる神山清子先生との衝撃的な出会いでした。先生は穴窯の事、自然釉の事などを丁寧に説明してくれました。僕はただただ、自分の無知を思い知らされ、はずかしさでいっぱいでした。そして先生は「あなた機会があったら私のところに遊びにおいでよ」と言ってくれたのでした。

 神山清子先生は1936年生まれ。滋賀県の信楽町にて半地上式穴窯にて自然釉を基調とした作風で知られ、女性の現代陶芸家の草分け的存在。現在は映画「火火」のモデルとして広く世間に知られています。

陶芸に夢中

 高校時代から陶芸に夢中だった。美術部陶芸班に入部後、放課後は毎日のようにロクロを回していました。とにかく楽しくてたまらなかった。創作しているものが気になって朝も早起きして学校に潜り込んでいました。顧問の先生達は指導するというより、一緒に楽しんでくれていたという感じで、また、先生達は結構業務で忙しく、ほとんど僕は一人気ままにロクロを回していました。

 粘土をロクロの真ん中に置いて、スイッチを入れると粘土は回りだす。すると粘土はグルングルンとブレブレ。初めは手が粘土に操られてしまって、どうにもなりませんでした。でも飽きることなく、毎日やっていると少しずつ上達して行くもので、一ヶ月後には粘土もブレずに中心が整うようになりました。2年生になる頃には茶碗や湯のみ、鉢など、ある程度思い通りの形が作れるようになりました。窯の蓋を開けて、熱気の中から自分の作品が見えた時の感激は今でも忘れられません。
 その喜びが味わいたくて、今日まで陶芸を続けているのかもしれません。

 また、この頃、作る事だけではなくて陶器を見る事もだんだん好きになりました。下校では骨董店やギャラリーに寄って、店主達から色々と話を聞いたり、良いものを見せてもらったりしました。高校生がこの世界に興味を持つ事は珍しかったので、結構大人達には可愛がってもらいました。とにかく日本、世界にはありとあらゆる陶器があって、その歴史も知れば知るほど面白く、陶器への関心はどんどん僕の中で広がって行きました。

美術部 陶芸班

  画家になりたいと思っていた僕は美術を勉強するために工業高校のデザイン科に入学しました。登校初日、まずビックリしたのはヤンキーがいっぱいだった事です。リーゼントにチョウラン、ボンタン。タバコもプカプカ。当時の男の美学と言うか、そんな感じが流行っていました。校内暴力も問題になっていたし、ナメ猫なんかも一世風靡していました。男女共学ではあるものの、ほとんど男子校状態でデザイン科だけは女子が多かったので、休み時間になると他の機械科とか設備科の男共が女子を物色しに来ていました。デザイン科の男子は、逆にインネンを付けられる事も多くて困った。ちなみに卒業してからカラオケに行ったら友人の歌う横浜銀蝿の「ツッパリHigh School Rock'n Roll」のイメージ映像のロケ地に母校がなっていたのには苦笑しました。

 高校でのデザインの勉強は画家になるためというよりは、工業的な知識を習得するものでした。素材のことや、広告デザインなどの表現の手法などの基本的な事です。画家になりたいと思っていた僕は戸惑いました。豊富にある石膏像を放課後に描いて、やっぱり美大に行くしかないなーそんな風に考えていました。今から思えば、画家になるためにどのようなアプローチが必要なのかまったくよく考えていなかったのでしょう。

 高校入学から4ヶ月が過ぎた時、廊下を歩いていて、ふと彫塑室を覗いてみると先生達がロクロを熱心に回していました。何か惹き付けられてじっと見ていると、ロクロの上で回転する粘土が伸びたり、縮んだり、あっという間に形を変えて茶碗になったり。それはマジックを見ているようで、衝撃的でした。先生達のための憩いの部活のようにも見えましたが、しっかりと美術部の中の「陶芸班」という位置づけでした。(部員はいませんでしたが、、、)「こんな部活があるんだ!」この出会いが僕を絵画から陶芸へと導いて行きました。

画家になりたい

 子供の頃いろいろなものを作った。ゲーム機なんかも無い時代なのと、まったく勉強にも熱心ではなかったので時間がいっぱいあったのだろう。歯磨きチューブの長細い空き箱に竹串を刺し、牛乳瓶の蓋を車輪にして、色紙を貼ってレーシングカーを作ったり、、、そういえば、飼っていたハツカネズミを運転手がわりに閉じ込めて、集落を自転車で引っ張って遊んだ記憶も蘇ってきます。作って遊ぶだけではなく、作ったものを人にあげるのも大好きでした。リヤカーを引いて豆腐を売りに来るお姉さんは僕のアイドルで、子供ながらに気を引こうと折り紙を折っては渡したりしていました。

 小学校の高学年になると、一つの事に集中して打ち込む楽しさも知りました。ある日、民芸玩具の内職をしていた母親が2cm×3cmの板きれを何千枚もダンボールにいっぱい持って帰ってきたことから始まった。よく見ると、板には「無事カエル」の刻印。板の上には小さいカエルが乗るはずだったらしいが生産は中止。いらないものを母がもらってきたのです。この板に僕はハマった。それはドミノ倒しにちょうど良かった。それ以来、家中の床一面を使って何度もドミノ倒しが繰り広げられた。失敗しても何度も繰り返し、達成感を味わう。今から考えれば優れた玩具だ。

 中学になると僕は油絵を描くようになりました。美術館で見たゴッホの絵が始まりで、強烈に色彩を塗り重ねる事を真似してみたくなったのです。古本屋で見つけた「炎の画家ゴッホ」(式場隆三郎著)を読んで、その衝動は一気に加速。親が画材道具をプレゼントしてくれた事で実現。まずはタンポポを「ひまわり」に見立てて描いてみた。しばらくすると当然、ゴッホにはなれない事に気がつき、しっかり勉強して「画家になりたい」。そういう意志が少しずつ僕の中に芽生えていきました。
(写真は1996年にひと月かけてゴッホの足跡を訪ねた旅で、ゴッホ終焉の地フランスのオーベルにて撮影したもの)

はじめての陶芸とカエルの災難

 子供の頃、僕の住んでいた家は周りが田んぼでした。神奈川県小田原市の栢山というところで、ずいぶんのどかな環境でした。稲刈りが済むと集落の子供達はみんな、広々とした田んぼで日が暮れるまで遊んでいました。泥団子を作って投げ合っていた事も多かったです。積んである稲藁を壊してバリゲードにしたりして、、、今から思えば、農家のおじさんはずいぶん寛大な人だったと思います。
 小学校4年生の頃だったか、僕はふと田んぼの粘った土を焼いてみようと思って、田んぼの横にある溝で拾ってきて集めた小枝に火をつけて焼いてみました。きっとその頃に、縄文とか弥生時代の土器の事を学校で勉強していたのかもしれません。しばらくすると友達が何やらヒキガエルを捕まえてきて、そのカエルも一緒に燃やしてみました。火が消えて、出てきたのはカエルの白い骨と砕けた土のかたまりでした。子供の好奇心の犠牲になってしまったカエルにはとんだ災難です。これが、僕の中で陶芸を意識した一番古い思い出です。
Kazuhiko Kudo, a Japanese potter in Hokkaido

Kazuhiko kudo introduction in English by The Tripout.

工藤和彦のインスタグラム

《個展・企画展情報》


5月2日〜5月7日

ギャラリー唯

《今後の個展/企画展情報》
  • 個展*此方 (厚真町・北海道)
    5月20日〜5月29日
  • 個展*北の住まい設計社 (東川町・北海道)
    5月27日〜6月11日
  • 個展*だいせつ倶楽部 (上川町・北海道)
    6月14日〜25日
  • 粋人館 (愛別町・北海道)
    8月中旬
  • 個展*D&DEPARTMENT(札幌・北海道)
    8月15日〜10月1日
  • 個展*はこだて工芸舎(函館)
    9月8日〜9月19日
  • ニューヨークSARA企画展(NEWYORK)
    9月14日〜9月16日
  • 個展*仙台三越美術画廊 (仙台)
    9月20日〜9月26日
  • 三渓園 企画展 (横浜)
    10月5日〜10月7日
  • 個展*花のアトリエこすもす(金沢)
    10月28日〜11月5日
  • 個展*三越札幌美術画廊 (札幌)
    12月12日〜12月18日
  • 暮らしのうつわ花田企画展(東京)
    2018年
  • 三越名古屋栄美術画廊(名古屋)
    2月21日〜27日
  • 西武池袋美術画廊(東京)
    6月6日〜12日
  • ※展覧会の日程は変更がありますので、ご注意ください。


  • 工藤和彦のホームページ
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